第5章
山登りをやめて仕事に打ち込む
40歳近くなると体力的にも厳しくなってきて、いつやめようと思いつつ登っていましたね。特に40歳になった年の正月に山梨の甲斐駒ヶ岳の黄蓮谷へ3泊4日で行ったんです。本格的なアイスクライミングルートですが、昔のようにはできなくなっていた。年齢を感じました。
僕が山をやめるきっかけが2つあって、ひとつは日本の登山界の変化を肌で感じてきたからです。アルペンクライミングというのはより高くより険しくを求めるのですが、僕がやめるころというのは、ボルダリングや海岸の岩を登るとかが専門誌を占めてきていた。それがすごく嫌だったんです。僕は山の頂上を追及したかった。だってあんなの天候関係ないじゃないですか。短パンやTシャツで、落ちたって絶対に死なない岩登りなんてね。山っていうのは、いろんなプレッシャーの中でやらないといけないという思いがありました。僕には、そういうのは猿まねだという意識がすごくあったんですね。でも当時そういう方向に登山界全体がいこうとしてて、とても抵抗があったんです。山の登り方には強いこだわりがあったんですね。
山をやめるきっかけのもうひとつが、息子が3歳のときに遭った事故です。妻の実家の近くに150メートルくらいの垂直の岩壁があるんですが、ものすごい暑い日にそこを登ってたんです。3分の2くらい登ったところでやめて下って、下の食堂でビールを飲んでたんです。そしたら、そのお店の人が「あんた、中野さんじゃないか」と。「はいそうです」と言ったら「バカどこ行ってた!、子どもがひかれたぞ!」ってね。息子が事故に遭って消防団がお前のこと捜してる、って言われたんですよ。びっくりして、その場から女房の実家に電話したらおばあさんが出て、車にはねられた、って。
すぐに三条の病院まで友達に連れて行ってもらいました。僕が到着したときも、まだ意識不明だったんですよ。3、4時間意識不明だったのかな。でも僕が着いて15分くらいたったらワーっと泣きだしてね。頭がい骨骨折と左足複雑骨折で、大変だったんです。すぐ三条の病院から長岡の日本赤十字病院に転送されました。僕はその手術を窓越しにずっと見ていました。息子の姿を見ながらものすごく、深く反省しました。僕は自分勝手なことをやっていたとね。山に夢中になってたから、女房とあちこち行くこともなかったし、休みっていうと山に行ってたから。それが当たり前と思ってたんですよ。
子どもをどこかに連れて行った記憶もあまりなくて、いいお父さんじゃなかったね、正直。連れて行ったとしても、ほとんどが山のキャンプ場。そこに女房と息子をおいて、仲間と山に登りに行ってました。女房にとってもいい亭主ではなかったと思いますよ。
山の道具が入ってたタンスを封印して、それから仕事バカになりました。当時40歳ですから、70歳までの30年間。でも仕事バカになったからって仕事の業績がよくなるわけじゃない。とにかく、必死でしたね。