第3章
ヨーロッパへの憧れ
定時制を卒業したあとに、今のスズキディーラーに入社しました。整備をしていたからというつながりで、最初は整備要員でした。のちに会社命令で営業に回されましたね。
仕事は頑張ってやりましたよ。でも、冬は土日月とかで休んだりしてましたから、会社からはいい社員だと思われてなかったかもしれません。だけど、社長はものすごくかわいがってくれました。仕事をきちっとやっていたおかげですかね。
当時はもう、山、山、仕事のような気持ちでした。山、山、山くらいかな(笑)。それくらい山は強烈なんですね。冬の岩壁登攀(とうはん)なんてやったらしびれますよ。危険だからいいんです。危険がなかったら行かないですよ。
そのころになると、ヨーロッパで活躍している登山家の翻訳本がたくさん日本に入ってきたんですよ。高校時代に読んだ『たった一人の山』や『エベレスト初登頂』もほとんどヨーロッパが舞台でね。そういうのを読むと憧れが募りましたよ。日本全国でヨーロッパへ行こうという機運が高まっていました。何人か日本の有名な登山家もヨーロッパへ行ったんです。それで、我々も行けるんじゃないか、どうかな?行けるかな? 行きたい、いや行こう行こう! と、どんどん変化していったわけです。
谷川岳は2000メートルしかないんですけど、ヨーロッパはほとんどが標高4000メートル以上なんです。岩と雪と氷の世界ですから、どうしても冬の岩壁登攀(とうはん)を経験しないと、ヨーロッパに行っても駄目だろうということになりました。新潟県というのは雪国ですから、1年の中でも今日はとんでもなく寒いっていう日があるんです。あえてそういう日に、僕はヘッドランプと山道具を持って、夜中1人で凍った沢を登りに行くんです。冬の岩登りを練習したいというわけでね。まぁ、バカだったね。それくらいやらないとヨーロッパには行けないと思ってました。山に対する情熱は、誰にも負けないんじゃなかったかな。
冬の岩登りっていうのは新潟県の岳人の中では憧れでしかなかったんです。でも僕は、ある年の冬、椿君と小黒君と3人で谷川岳に行きましてね。小黒君は吹雪でとても無理だっていうので帰っちゃったんですけど、僕と椿君は冬の南陵を登って、頂上の小屋に泊まって帰ってきました。それが冬の一の倉の南陵登攀(とうはん)の最初だったんです。それはもう大きなニュースですよ。その成功が、新潟県の山岳会のすごい刺激になったと思います。彼らが登れるなら僕たちも登れるっていう人が増えて、それが、翌年1月の駒草山岳会の一の倉合宿の二重遭難の引き金になったんだと思います。
2度の試練
駒草山岳会の岳友3人が勢いに任せて、一の倉を目指したんですけど、豪雪と吹雪で上にも行けない下にも行けないで動けなくなったんですよ。2日たっても3日たっても下りてこない。これは遭難だ、ということで我々が救助に行ったんです。当時は山岳レンジャーなんてないですから。遭難地点に近い避難小屋に前進基地を作って、サポート隊と救助隊、5名ずつ計10名で救助に向かいました。
小屋といっても窓もなくて屋根があるだけですから、その屋根の中に夏用のテントをたてて、外に冬用の最新のテントをたててね。サポート隊が小屋の中に、救助隊が僕も含めて5人が外に泊まる予定でした。ところが僕が前の日から下痢してて、避難小屋のトイレで寝てたんです。それで、僕の代わりに今井君が救助隊のテントに入ったんです。そしたら夜中の3時ころに頂上から大雪崩が起きて、そのテントをつぶしちゃったんですよ。それで5人が亡くなりました。僕はトイレにいたから助かった。その中の1人をなんとか引っ張り出して、人工呼吸したけど、瞳孔が開いちゃってました。
小屋の中に残っていたサポート隊の他の4人は冬山はまったくの素人でした。その4人はなんとしても助けなければ、と思ってね。まずは彼らを無事に山から下ろすことを考えました。小屋にあったスキー板を靴にくくりつけて、助けを求めに1人で下りようとしたんですけど、途中で雪崩にぶっ飛ばされました。これは僕1人で行っても、危ない場所が途中に何カ所もあるから死んでしまうと思い、一度戻って、全員連れてなんとか下まで帰りました。
救助に行った5人と、遭難したうちの1人が亡くなりました。計6人ですね。それは、近代の山岳遭難の中でも極めて異例で、悲劇的な遭難でした。
そのとき、自分の本当の友達を失ったんです。特に岩登りのパートナーというのは誰とでも組めるわけじゃない。登山技術もさることながら、あいつなら信頼できる、という相手じゃないと駄目なんですよ。そういう仲間4人が、ばかーんとやられちゃったわけです。それはもうショックで、立ち直れないくらい沈みましたよね。初めての大きな試練です。本来ならそこで僕自身も山をやめるんでしょうけど、そうはならなかった。むしろ、彼らの分まで登らねばならんと、そういう思いが湧き上がってきて。むしろそこから、激しいルートに挑戦するようになりましたね。
実はその後も、後輩が2人死んでるんですよ。彼らが、山に行く前々日に僕にルートを聞きにきたんです。それが死んでしまった。このときは悩みましたね。僕の2度目の試練です。
でも、何回遭難で仲間を失ってもやめる気にならなかったです。なんとかして、彼らの分まで登ってやろうという気持ちがますます強くなった。
山登りで大変だったというのはなかったですね。ただもう歓喜、歓喜。二重遭難で仲間が死んだ年の暮れには2週続けて冬の一の倉の難ルートに成功したんですよ。そのときは、本当に天にも上るような気持ちでした。彼らの分まで登れたと。それに、この先にヨーロッパへの道があると思いましたね。アルペンクライミングは、宗教に近いというか、ものすごく精神的なものなんですよ。バカになっちゃうんです。誰が見てるわけでもないし、登ったからってお金もらえるわけでも拍手喝采浴びるわけでもない。自ら危険なときに危険なところに行って、その代償は、ただそこに登ったという自己満足。バカな遊びですよね。でも、だからこそ面白いんだと思います。
冬の山登りのことはすべて鮮明に覚えています。それだけ強烈なんです。だって冬は誰も登らないから。それをやっておかなかったら、ヨーロッパに行っても通じないなと思いましたね。