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第2章

チョウチョウ採集から登山へ

小学生のときは昆虫採集が大好きでした。網を持って、山に行くわけですよ。片道2時間も3時間も歩いてね。山の中でチョウチョウを採って、三角の袋に入れたり、標本にしたりするんです。そのうち、チョウチョウの雄と雌を捕まえてきて、卵を産ませて飼育するようになりました。だから家じゅう毛虫だらけ。家族は、それはもう嫌がりましたよ。

チョウチョウ採集から登山へ

山へ行くと、春ならタケノコ、ゼンマイやワラビがあったり、秋になれば栗がある。それを持って帰るとやっぱり、親が喜ぶんだよね。そんな親の喜ぶ顔がうれしくて、タケノコを盗んだこともありました。

勉強は、小学校のときは全校生徒でトップクラスでした。夏休みの宿題でチョウチョウの飼育観察日記をつけて、市の小学校の発表会で表彰されました。まぁ、祖父が先生でしたからね。

中学生になってもやっぱりチョウチョウを追いかけてました。そしたら、親が勉強の妨げになるっていうので標本も幼虫も全部燃やしてしまったんです。もう、全部。ショックだった。それでチョウチョウは諦めたんだけど、山を歩くというのはすごく心地よかったから、山は続けたかったんですね。

そのころ読んだのが、松浦佐美太郎の『たった一人の山』と、エドモンド・ヒラリーの『エベレスト初登頂』です。山の神秘性というか、高山の神秘性というのに触れて、すごくわくわくして胸が躍って、よし山をやろう! というふうになった。それが大きなきっかけだと思います。

中学3年のときに、日本山岳会に入れてくれと新潟県事務局に行ったんですよ。ほんの14、15歳の子どもがね(笑)。でも日本山岳会は推薦者がいないと入れないし、有名な大人しかいないわけ。だから無理だということで、峡彩山岳会という市の山岳会に入ったんです。新人だと、テントをしょわされるんですけど、当時のテントは帆布でできてるから、重くてね。35、36キロはあったかな。しかもテントというのは、日増しに夜露を含んで重くなる。ところが他の連中は、燃料とか食料とかだからどんどん減っていくでしょ。僕はテントが重くて、重くて、周りの景色なんてほとんど見られない。こんな山はやるべきじゃない、性に合わないと思ったね。それで、先鋭的な岩壁登攀(とうはん)を志向するようになったんです。高校生のときに、三条駒草山岳会に入りました。

山に登り続けた高校時代

高校は夜学に行く予定じゃなかったんですよ。でも、第一志望校に落ちてしまって。長岡工業高校の電気科を受けたんです。倍率が3・2倍。今は誰でも入れるかもしれないけど、当時の工業高校の電気科は就職率が高かった。僕も進路がはっきりしていなかったから、就職率がいいということで電気科を受けたんです。でも落ちちゃって、遊んでるわけにはいかないから夜学に行ったんですよ。夜学は普通科の進学校でした。定員に達していなかったので、無試験で申告するだけで入れましたね。

夜学だと昼間働くでしょ。僕は三条のとある整備工場で自動車の整備をやっていました。自動車整備というのは花形だったからね。壊れてる車を直すっていうのは、すごいことじゃないですか。あのころの車は、壊れるのが当たり前だったんです。整備屋さんはもてはやされましたよ。お客さんが菓子折りを持ってきて、早く直してくれという時代でしたから。

昼間働くと、4000円か5000円の月給がもらえるんですけど、それがうれしくてね。そのお金で山に登りました。高校生のころは、ばんばん山に登ってましたからね。谷川岳に行く交通費が700円か800円くらいでした。登山活動をする上では、夜学に通ったのは非常によかったと思いますね。

自動車整備の能力は身に付けましたが、資格は取れませんでした。整備は好きでしたけど、当時は山へ行くために仕事をしていたので(笑)。車の下に潜って整備をするときも、腹筋を鍛えるとかいって、すべてを山につなげていました。そのころは腕力もあって片手懸垂もできたし、腹筋だって6つに割れてました。すごくいい体をしてましたよ。そのぐらい、山に集中してました。

三条高校の定時制に山岳部がなかったので、僕が作ったんです。入ってきた部員たちを山に連れて行ったり、校内登山で30、40人を連れて行くんですよ。今考えるとぞっとするね。何かトラブルでもあったらとか、そんなことは考えなかった。高校のころは、山岳部と駒草山岳会と、平行してやってました。

山に登り続けた高校時代

当時は、高校体育連盟で高校生は冬山と岩登りは禁止だったんです。でも僕は、谷川岳の一の倉の困難なルートを高校時代にいくつかマスターしちゃったんですね。うまかったんですよ。鷹匠足袋にわらじを履いて、それで登ってました。