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第1章

生まれと家族のこと

昭和18年、文京区の小石川で生まれました。うちは婿取りなんですよ。祖父が軍人さんで、娘が1人いて、そこにうちのおやじが婿にきたんです。軍人といっても鉄砲の弾ひとつ撃ってないんで、軍人といえるかどうかわからないんですけどね。

生まれと家族のこと

戦争の記憶はないけど、終戦後、3歳くらいのときに一度廃墟化した東京を母親と歩いたら焼け野原になっていて、子ども心にとんでもないものだったんだなというのが記憶に残ってますね。

疎開で、昭和19年には新潟に来ていました。亡くなった父親の兄弟が三条で商売をやってたんで。父は、早くに亡くなってしまいました。その後母は再婚して、義理の父親は今も近くに住んでいます。

おふくろは一人娘だったんですよ。祖父の教育で東京の師範学校に入ったんです。そのあと日本郵船でタイピストになったと思います。終戦後はGHQの社員になって、引き続き東京でタイピストをやっていました。厳しい人ではなかったですね。あまり母親らしくなかった気がするな。怒られた記憶というと、弟ととっくみあいのケンカをしたんですよ。そのときは、物差しをがーっと持ってきて、2人ともぶんぶん殴られたな。その1回だけですね。おふくろはきれいな人でしたよ。

子どものころは、決して裕福ではありませんでした。でも、祖父が軍人だったので、その恩給がありましたから、なんとかなったんだと思います。

中野家のルーツは、宮城県の白石の、片倉小十郎家の家臣にあります。祖父はそこから出てきて、軍人になった。祖母はうちのおふくろが子どものころに亡くなったので、男手ひとつで娘を育てたんだね。うちはおふくろが昼間働いていたので、幼少から高校までずっと祖父が親代わりで教育というか、しつけをしてくれました。厳しい人でしたよ。挨拶や礼儀作法、勉強もすごく厳しかった。高校1年のときに平成天皇がご成婚されたんだけど、その結婚式の翌々日に祖父は死にました。その後の成績はもう最悪でね。それくらい、祖父が勉強を見てくれていました。

兄弟は、4つ違いの弟がいます。小さいころはよく一緒に遊びましたね。ずっと、僕の後ろをくっついてきていました。僕が山をやるようになってからは、そんなこともなくなりましたけど。

幼心に感じた時代の変化

小さいころの遊びというと、三角ベースの野球ですね。そういう時代でした。雪が降っても靴下はいてくるような同級生はいなくて、学校での上履きは藁のスリッパでね。給食が唯一の栄養補給なんですよ。戦後、何もないところからのスタートですから。物の運搬も、馬車か馬そりなわけですよ。車も限られた数しかなかったし、除雪車なんてのもなかったから、冬は大変でした。

時代が変わってきたのがわかったのは、例えば雨具ですね。小学校低学年くらいのときは、藁ぐつや茣蓙(ござ)帽子の人が多かった。あとは唐傘。冬でも高げただったりね。それが、小学校の4、5年になってから長靴が履けるようになりました。うちは両親が共働きだったので、寂しいだろうということで町内でも最初にテレビが入ったんです。相撲の中継があると近所の人がみな見に来ていました。白黒の、写りが悪いやつね。

朝鮮戦争のおかげで、景気が良くなって、ものを作れば売れる時代になりました。見通しのいい時代だったと思います。当時は生きられること自体がありがたいことでしたから。僕は、戦後生き残って頑張ってきた人たちが、日本を立て直してきたんだと思いますよ。